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私たちのくらしと丹沢

私たちのくらしと丹沢 第1部 9.信仰の山から憩いの山へ


信仰の山
 丹沢の大山は、奈良時代(755年)に良弁(ろうべん)というお坊さんが開山したといわれています。
また、丹沢山地は鎌倉時代から山伏や修験者の修行の場として利用されてきました。このため、今でも行者岳や経ヶ岳など、当時の山岳信仰にちなんだ山の名前をみつけることができます。
良弁イラスト
江戸を支えた材木供給地
 戦国時代から江戸時代には、小田原城や江戸城築城のために丹沢山地の木材が利用されました。江戸100万人に都市生活を支えたのも丹沢の炭や薪でした。木材を運ぶため丹沢山地を水源とする豊かな川が利用されました。当時、相模川には木材を組んだいかだや炭を積んだ帆かけ船が川を下っていました。
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丹沢六木(たんざわろくぼく)
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 江戸時代、丹沢は幕府の御林(直轄地)になりました。木が盗まれないように、寺山・横野(現在の秦野市)、煤ヶ谷・宮ヶ瀬(現在の清川村)の村々では御林の見回りが命ぜられました。
ツガ、ケヤキ、カヤ、モミ、クリ、スギは「丹沢六木」と呼ばれとくに大切に守られました。村人が見回りの時に札をかけた場所が今でも「札掛(ふだかけ)」という地名がついています。
丹沢六木

江戸時代の観光地
大山詣  信仰と遊びを兼ねた名所めぐりは、江戸庶民の大きな楽しみのひとつでした。神奈川県は当時、江戸から近い観光地として、江ノ島、金沢八景、大山が人気のスポットでした。
とくに、阿不利(あふり)神社や大山寺に参詣する「大山詣(おおやまもうで)」が大流行しました。各地から大山に通じる道がつくられ「大山道(おおやまみち)」と呼ばれました。

「東海道五十三次細見図会」
大山詣は、納め太刀(おさめたち)という小太刀を奉納し、その代わりに前に奉納されている小太刀を持ち帰ってお守りとする習わしがあるため、大山詣の人はひと目でわかりました。
(神奈川県立歴史博物館 所蔵)

登山ブーム
深いササやぶにおおわれていた丹沢山地は、昭和の初めまで、山仕事や一部の登山家しか来ない山でした。
しかし、1955年(昭和30年)の「第10回国民体育大会」で登山部門の会場になったことで、登山道や山小屋が作られました。1965年(昭和40年)に国定公園になると、都会から登山客や観光客がたくさん訪れるようになり、「登山ブーム」が始まりました。
丹沢では多くの人が山に来ることで登山道が荒れてしまったり、下草が踏みつけられたり、ゴミが捨てられるなど「オーバーユース(多くの人が集中して利用すること)」による問題が起きています。
登山道が荒れるまで
オーバーユースにより深く掘られた登山道
オーバーユースにより深く掘られた登山道
  


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